国際歯科学士会
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ICDの概要沿革・歴史

目的綱領沿革・歴史 [1] [2] [3] [4]歴代会長三大事業開催地  

森山先生Photo
Norinaga Moriyama
 日本部会の沿革
国際理事 森山 徳長
  
1.はじめに
 ICDの戦前の歴史については箱根総会で話させていただいた講演要旨を日本部会雑誌に論文形式で発表した。紙数の都合で意を盡せなかった部分を先ず補い、本誌の紙数の許す限りで主として日本部会の戦後の歩みをコンパクトにまとめてみたい。
  
2.創立の起源
 最初に、神話的表現のような調子で、ICD創立の起源を述べて見る。
 Louis Ottofy(1860−1939)はハンガリーのブダペスト生れ、医師の子であったが、1874(明治7)年欧州移民として一家で米国ボールチモアに入港した。1877年Western College of Dental Surgeonsを卒業して歯科医となり、ノースダコタで郵便局長をしながら開業、兵役も1882年少尉で除隊し、1888年には大都市シカゴに出て開業した。学問熱心でB.J.シグラントの知遇を得てChicago College of Dental Surgeryの教授をつとめ、さらにAmerican College of Dental Surgeryの学長を1893年から4年間つとめ、その後シカゴ歯科医師会長となっている。
 1893年シカゴ万博と万国歯科医学会での高山紀斎との出逢いがOttofyの東洋熱に油を注ぎ、遂に1898年『旭日の帝国』に渡航することとなる。
  
3.Ottofyの活動
 横浜に到着したのは明治31年6月末頃で、旅装を解くいとまもなく早くも7月15日には、小幡英之助の温交会で講演している。かねてから打診していた高山歯科医学院講師の職は、学院側の経済的都合で実現しなかった。
 横浜で開業しながらOttofyは、日本の歯科界を観察し2年間に4編の論文を米国の雑誌に発表した。
 滞日中彼はその他に1)日米歯科協会を創設し、2)パリの万国歯科医学会組織委員会を作り、3)日本における米国歯科大学入学資格検定委員をつとめ、4)口腔衛生学童歯科検診に熱心だった彼は、目黒の慰廃園でハンセン病患者の口腔診査を行った。
 外国人人口が少ないため横浜での開業はあまり成功することが出来ず、1900年米西戦争で米領となったフィリピンのマニラに渡り開業し、20年間滞在した。
 その間彼は歯科教育者・理事者としてフィリピン大学歯学部の創設に盡力した。開業の傍ら執筆活動も盛んに行い22編の論文を米国歯科雑誌に発表している。その範囲は歯科事情、熱帯病学的観察、顎顔面補綴、口腔衛生運動にわたっていた。比島陸軍の少佐・歯科部隊長としても活動し、兵士の歯磨訓練など行った。
  
4.1920年代
  1920年帰国の途次日本に立寄ったOttofyは、20年後の日本の歯科事情をつぶさに調査し、その急速な進歩を驚きをもって報告している。
 奥村鶴吉主催の歓送会で、今日のICDの萌芽となる話合いが持たれた。1926年フィラデルフィアの万国歯科医学会で再会した、奥村ほかの日本代表出席者たち(島峯 徹、岡田 満、向井雄ら)から催促される形でOttofyは、世界の有力な学者たちとも交流・相談して、翌年末12月31日には現ICDの組織・定款をまとめ上げ、1928年7月9日付でワシントンD.C.の州法により、法人組織の認可を取りつけた。
 奥村は12名の本部理事の一人として会員の推薦を依頼され、東京の島峯 徹と京都の寺尾幸吉ドクトルがFICDとなった。  1994年5月京都総会で、現日本部会監事川口正典フェローが寺尾幸吉の履歴につき詳細に報告されたことは未だ記憶に新しい。そこで筆者は昭和初期の史料を詳細に調べた結果、東京高等歯科医学校初代校長島峯 徹博士が、寺尾先生と同時に1929(昭和4)年フェローになられたことを知った次第である。
 戦前の日本人フェローは、本部理事奥村鶴吉を含め3名であった。
 しかし1930年代に入って世界の政治情況には暗い影がさし始め、やがて第二次世界大戦の闇に包まれて行った。

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