第9回 東北めぐり 〜温故知新〜
都をば霞とともに立ちしかど 秋風ぞ吹く白河の関
能因法師が、みちのくに旅してよんだ歌といわれています。その昔、内国と蝦夷の国とを境するために施設した厳重な奥州三関として、勿来の関、鼠ヶ関そして白河の関がありました。都から奥州に下ることは、未知の国に出かける大変なことだったのでしょう。
入りそめて国ゆたかなるみぎりとや 千代と限らじせんだいの松
約600年後、仙台藩祖伊達政宗が仙台に築城するときに、よんだ歌といわれています。青葉山を利用した典型的な山城で、天守閣のようなものはなく、城の体裁としてはまことにお粗末だったようです。正宗は、秀吉・家康の天下人にその政治的野心をひどく警戒されました。丸腰の城という形で、天下人の警戒心をときながら、自然の城の天険で、それを補ってあまりある築城形式をとったといわれます。
白河以北は一山百文
戊辰戦争で官軍に敗れた明治維新以来、西に厚く東北に薄い政治がついこの前まで続きました。八戸までやっと延びた東北新幹線、青森県民はどれほど頸を長くして待ったことでしょう。しかし、皮肉なもので、開発が遅れた結果、自然が自然のままで残り、昨今の自然に帰ろう・ECOブームの最先端となるとは。
東北地区の会員は5名で、青森県に3名、宮城県に2名、他の4県には残念ながら一人もおりません。会員が増えない理由の一つに、東北の長い歴史が、何らかの形で影響しているようにも思えます。
広瀬川を渡って坂を登ると、復元された隅櫓が出迎え栄華の跡を物語ってくれます。ここから標高差60メートルの坂道を登ると、本丸跡にたどり着きます。
仙台城本丸の跡に伊達政宗の騎馬像が仙台市街を一望の下に見おろして立っています。当時の城下町は人口5万人余で、その規模は江戸に引けをとらないぐらいとも言われていたようです。
仙台空襲で焼け野原になった市街地を区画整理で今の道路に変えました。当時、定禅寺通りに植樹した4列の欅は道を覆うほどに茂り、中央分離帯広場は市民の憩いの場として、青葉祭り、動く七夕祭り、定禅寺ストリートジャズフェスティバル、みちのくYOSAKOIまつりなど、多くの催し物の中心の会場となっています。
夏が終わり秋になると、茂った欅の葉もやがて全てが散って、枝だけの寂しい樹になってしまいます。市民一人ひとりの力で豆電球が灯される光のページェントが、寒い暗い冬の夜の定禅寺通りを暖かくしてくれます。
青森のねぶた祭り、秋田の竿灯祭り、仙台七夕祭り、山形の花笠踊りは、8月に入ると北から順番に始まります。1600年頃から江戸風の七夕を取り入れ、田の神を迎える行事として仙台七夕は地元に定着、愛されるようになりました。紙衣、千羽鶴、短冊、投網、屑篭、巾着、吹流しの七つの飾りは多くの願いを込めて、欠かすことのできない飾りとなっています。
寒い冬も深い雪も、スキーヤーにとっては待ちに待ったシーズン到来です。晴れた日のスキー場では汗ばむほどで、俗世の一切を忘れさせてくれる純白の別世界です。一方で街中の大雪は、人の往来を妨げ、雪の処分に何も生み出すことのない大金が毎年使われます。
「奥州松島は、東海にあり、小島がたくさん浮かび、海岸は屈曲してめぐる。奇峯・異石、天下の絶境である」鎌倉時代の仏教史の本に記されているそうです。松島五大堂、瑞巌寺、円通院、観瀾亭など多くの文化的建造物も楽しませてくれます。雪の松島五大堂です。
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