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5.戦 後 |
長い戦争も終り、戦中・戦後の混乱から立ち直り始めた1956(昭和31)年、元大阪歯科医専教授で歯科雑誌主幹山内竜太郎は、米国を巡りICDとのコンタクトの機会に恵まれてフェローとなった。
この時点で島峯フェローは1945年、寺尾フェローも1954年物故されていた。
理事奥村は戦後の学制改革の尖兵として奮闘し、東京歯科大学長の職を福島秀策に譲り重い病床に在った。そして残念ながら1959年2月4日逝去された。
戦後ICDの歩みの最初期の史料は、本部ICD News Letterに見出される。そして1970年に創刊されたICD日本部会雑誌(J.ICD)には、第1、10、13、17、24巻にその沿革についての記述があり、特に創刊号と24巻に詳しく、前者には故奥村鶴吉(会員名簿に転載されていた)また後者には35周年にあたるとして、河村洋二郎マスターの書下されたものと、座談会記事には興味深いこぼれ話も網羅されている。それ以前に1983年12月にはハードカバーの立派な25周年記念誌が出版され、その時点での本部および日本部会の沿革がまとめられている。
最初期の史料は散逸しているものもあり、本部事務局のNews Letterのコピーその他、筆者の請求で昨年国際理事会でLloyd Phillips次期国際会長から恵贈されたものと今春U.S.A.部会編『U.S.A.部会史1920−1996』により、編集史的手法でまとめてみた。 |
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6.1956年 |
News Letter1957年3月号によると、山内竜太郎は1956年マニラで B.B.Erana(ICD役員・国際会長)に会っている。歯科研修交渉のため米国各地を巡り、11月19日ミネアポリスにWesterdahlを訪れ、世界的に有名な技工所やフェローのHarry Tinker、またミネソタ大学歯学部も訊ねている。J.ICD 創刊号に山内自身がその時ICDフェロー並びに日本担当理事に任命されたと書いているが、このことはNews Letterの理事任命の記事によって裏付けされる。(ただし、現在の国際理事ではなかった。)
とに角、山内は戦後最初のF.ICD であり、病中の奥村に代って日本ICD再建のチャンピオンとなった。 |
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7.ICDの再建 |
1957年4月ADA会長エレクトのDr.William Alstadtが来日され、ICDフェローということもあって山内が公式通訳として諸行事に隨行した。当然ICDを再建しようという話題が起り、松宮教授と山内が中心となって活動が始まった。
5月から毎月のように山内、中原 實、松宮誠一、永井一夫、田高善七、佐藤文悟の6名が鳩首協議し、9月には6名の他に佐藤運雄、河邊清治、大塚豊美、原田良種、福島秀策、飯塚喜四郎、大井 清、木所正直、新国俊彦、鹿島俊雄、青木清雄の計17名が、さらに橋本 猛が加わり18名が1952年に認証を受けたことが顔写真入りでNews Letter March1958に掲載されている。
同誌には、元理事奥村をライフメンバーと承認したこと、松宮がFDIローマ大会で名誉会頭12名の一人になったこと、佐藤運雄をICD名誉フェローとした事、日本が College−at−Largeの第25地区と位置づけられた等の記事を見る。May 1960・ICDニュースレター 日本部会発会式で挨拶する福島会長(上) 認証を受ける米沢・鈴木・亀沢・有田フェロー(下) |