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11.ICDの刊行物 |
次にICDの刊行物について述べる。国際本部は各国のフェローの投稿によりScientific and Educational Journalを10年間にわたり発行したが、経済的理由で中止となった。それに代わるように米国部会では“Key”と、ニューズレター的な“Key Note”を発行し、わが国では1970年春から“J.ICD Japan Section”を年1回発行している。1887・88年は18・19号合併号とし、日本部会及び国際本部行事との整合性を持たせるように工夫され、今年の32号に到っている。
別に速報性を持ったICDニューズが、1974年10月からスタートし、モノクロで表紙に目次を載せたパンフレット形式だったものが、現在のカラー表紙版になったのは1984年1月第18号の25周年記念特集特集号からであった。その前に創立25周年の立派な単行本も別に出版された。最初の10年は大谷満フェローが委員長をつとめ、手づくりの会員同志のミニ・コミ誌であった。1984〜90年の落合靖一フェロー(今秋9月慶州でマスターに推挙)、1990〜94年の朝田富雄フェロー、そして現在の荻原和彦フェローが、それぞれ個性と創意で誌面を盛り上げて現在まで来ている。
雑誌とニューズは例年国際理事会で配布しているが、好評を博している。委員各位のご苦労を多としたい。米・日の外には南米部会も雑誌を発行し、豪州部会は年2回ニューズ・レターを送って下さっている。 |
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12.地球規模の連携 |
創立30周年記念誌の祝辞に、第12代会長松宮誠一先生は、本会の歴史は1)再建、2)高度成長、3)国際協調に分けられ、今こそ日本部会は地球規模の連携を強めねばならぬと述べておられる。
日本部会の国際化の始まりは、前述のように1969年に自治部会となり河邊国際理事の誕生がスタートであった。その後村瀬、佐藤(貞)両先生が理事を歴任され、1977年河邊・1990年佐藤貞勝国際会長の誕生を見た。1978年国際理事会で日本部会提案の『オトフィー・奥村賞』が決まり、第1回F.ケンワード事務局長(1988)、第2回河邊清治マスター(1990)、第3回カナダ部会(1994)にそれぞれ贈呈された。
1978年には北京、1986年韓国部会、1994年中国台湾部会の創設に日本部会は主導的役割を果し、その都度多数のフェローが参加した。今秋の第3回国際認証式は55名の参加を得て、9名のニューフェローが誕生したことは、記憶に新しい慶ぶべきことであった。9月8日ベトナムのホーチミン市で、ベトナム部会初認証式が行われ、筆者は日本部会を代表して参列した。日本部会の創設の頃の熱気はかくありきとの雰囲気を身にひしひし感じて帰国したばかりである。 |
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13.おわりに |
歴史の記述には史観が大切な根幹であり、原史料に忠実に裏付けされていなければならない。
従って何回も書変え、追加の記述がその都度あって然るべきである。今回はその点にかなり留意し、緬密な再調査に基づいて脱稿した。
9月3日の国際本部理事会でも、歴史委員会が新設されICDの歴史・史実の見直しを行うことになった。各セクションの歴史の原稿を1998年5月までに集めることとなり、筆者もその査読委員に任命された。
ICD日本部会史の決定版へのスタートは切られた。 |
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第3回国際認証式直後の日本部会参加者記念撮影
(1997年9月2日韓国慶州市キョンジュ・ヒルトン・ホテル) |
(1997年12月吉日) |